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プーチンはなぜ一線を越えたのか


2022年6月18日

大木俊治  氏

毎日新聞社 元モスクワ支局長

1961年神奈川県生まれ。1985年入社。94~99年、モスクワ支局でエリツィン政権のロシアを取材。ジュネーブ支局勤務を経て2007~10年はモスクワ支局長として、プーチン政権のロシアを取材した。その後は外信部デスク、論説委員(ロシア・欧州担当)を経て18年4月から記事審査委員。23年現在、営業総本部企画編集グループ。ロシア時代はチェチェン戦争(95年)やグルジア戦争(08年)、ジュネーブ時代は出張でアフガン戦争(01年)やイラク戦争(03年)を現場で取材した。ロシアとの関わりは高校時代、五木寛之の小説にはまって大学でロシア語を選択したことが始まり。

ウクライナ侵攻を振り返る

2021年1月、アメリカでバイデン氏が大統領に就任しました。その後アメリカは、ウクライナの国境にロシアが大規模な兵力を集めていると騒ぎ始めました。当時バイデン氏はロシアではなく中国に大きな関心を寄せていたため、ロシアとしては、アメリカや世界の気を引く意図があったと思われます。そして6月にバイデン氏とプーチン氏の首脳会談が行われ、戦略的安定性に関する対話の開始で合意しました。ロシアがウクライナ国境に兵力を集めるなどして脅しをかけたのはロシアは侮れない国だということを国内外に示すのが狙いで、実際に戦争をするつもりはないと私は当時、思っていました。

2021年12月末、プーチン氏がNATO不拡大を約束するよう改めて要求しましたが、バイデン氏はそれを拒否しました。今になって分かってきたことですが、そのころからロシアは、ウクライナに攻め込むことを決めていたようです。

親ロシア派武装勢力が支配していたウクライナ東部のドネツクとルガンスクの「人民共和国」の独立承認から始まり、その3日後に軍事侵攻を開始します。プーチン氏は特別軍事作戦という言葉を使いました。戦争は国際法違反になりますので、プーチン氏は今でも戦争という言葉を使わず、特別軍事作戦という言葉を使っています。(*その後、2023年5月9日の対独戦勝記念日の演説で初めて「戦争」という言葉を使い、欧米がロシアに仕掛けたものだと主張した)

いきなり首都侵攻を始めたのは、首都を押さえてロシア寄りの政権を立て、ウクライナをロシアのいいなりにする作戦だったのでしょう。ところがウクライナ軍の抵抗にあい、ロシアは戦略を変えて首都を放棄、撤退して東部に集中することになりました。ロシアが撤退したあとの首都周辺には虐殺された市民の遺体が多数あったことで、さらに注目を集めるようになりました。

2014年に何が起きたのか

私は、今回の戦争は2014年から始まっていると考えています。2014年には、3つのことがありました。まず、2月のマイダン革命です。発端は、当時のヤヌコヴィッチ政権がEUとの協力協定締結を見送ったことです。それに抗議するデモが起き、治安部隊と衝突しました。2月21日、ドイツやフランスの仲介で一度は和解しましたが、翌22日、このデモ隊の一部が大統領府を占拠して権力を奪取してしまいました。プーチン氏としては、過激な民族主義勢力による大統領府占拠は違法なクーデターであるため、その後の政権の正当性は認めないという立場を、今も続けています。

続いて起きたのが、3月のクリミア併合です。今はウクライナの一部ですが、もともとロシア共和国のものだったこと、ソ連海軍の基地があったことなどから、ロシア系の住民が多く住んでいました。そこで、ロシアがここに作戦を仕掛けます。首都で政権を取ったウクライナの過激な民族主義勢力が、今度はクリミアのロシア系住民を虐殺に来るという情報工作をしました。現地ロシア系の住民はそれを信じてしまい、大パニックになりました。それを見計らって今度は、実際にはロシア側治安部隊である覆面部隊がクリミアに現れます。自分たちは治安を守るために来たと言い、正体を知らない住民はそれを歓迎しました。さらに今度は、クリミア議会を封鎖して親ロシア派だけで住民投票実施を決め、クリミアのロシア編入を求める声が多数という結果になりました。それを口実にロシアがクリミア併合を決め、2月のクーデターに対する反撃をしたのです。このクリミア編入が非常にうまくいったので、今回のウクライナについても同じようにうまく終わると考えていたようです。

その後、4月に東部のドネツク州、ルガンスク州で独立を求める武装勢力が市庁舎などを占拠し、ウクライナ軍が出動して戦闘になりました。この独立を求める武装勢力には、ロシア諜報工作員のOBや保守的思想を持った人が潜り込んでいたようです。ロシアとしては一切関与してないという立場でしたが、当時のロシア軍幹部の発言などから、ロシア軍がかなり関与していたのは間違いありません。事実上、この2014年4月から戦争は始まっていたということです。

2014年7月、アムステルダムからクアラルンプールに向かっていたマレーシア航空の飛行機が撃墜されるということがありました。ロシア側は否定していますが、親ロシア派の武装勢力が誤って民間機を撃墜し、『しまった』と言っている交信が傍受されており、国際調査団もそれを証拠として採用しています。それまでオランダは親ロシア国家でしたが、この飛行機に搭乗していた多くのオランダ人が犠牲になったことで、反ロシアになりました。ヨーロッパとロシアとの関係が大きく変わった節目の事件でした。

その後も続いていたウクライナ東部紛争は、2015年にドイツやフランスの仲介で停戦合意をします。ベラルーシのミンスクで停戦合意したので、ミンスク合意といいます。これには3つの約束があります。1つは停戦をすること。もう1つが、ドネツク、ルガンスクの特別な地位を約束すること。これは、自治権のようなものを与えるということです。つまり、たとえばウクライナがNATOやEUに加入したくても、東部の人たちが反対すれば、それは事実上の拒否権を持つことになり、永遠にNATOやEUに入れないということになります。そのような約束をウクライナは飲まされました。その代わり3つ目として、ウクライナから外国の軍隊はすべて撤退し、ウクライナ国境はウクライナが管理するという約束でした。当然ウクライナは、ロシア軍が全部引き揚げるという合意だと思っていましたが、ロシアはもともとこの戦争に全く関係していないと主張していたので、話が初めからかみ合いませんでした。停戦合意をしたものの、その後も散発的な戦闘が続き、またロシアも、ウクライナが特別な地位を約束すると言ったのに何もしない、義務不履行であると非難していました。

プーチン氏を取り巻く「情報」

2022年2月21日、ロシアがドネツクとルガンスクの独立を承認し、ロシア系住民保護のためのロシア兵派遣を決定しました。その3日後の24日、プーチン氏は特別軍事作戦開始を宣言しました。プーチン氏は演説のなかで、ウクライナの兵士および国民に対して、われわれとともに戦い、首都に居座る薬物中毒者やネオナチから権力を奪取してほしいと呼び掛けました。ところが、ロシア兵がウクライナ市民から石を投げつけられ、暴言を浴びせられるなど、容易にウクライナが落ちると思っていたのは計算違いだったことが露呈しました。このときのことから、実態がプーチン氏には伝わっておらず、都合のいい情報だけが上げられていたのではないかと言われています。

このとき、もう1つ言われたのが、プーチン氏の様子についてです。アメリカのニューズウィークという雑誌は、何か病気があるのではないかという見立ての報道をしました。プーチン氏の落ち着きのなさやイライラした様子、精神的不安定さを指摘する声もあり、今回の決断の背景にそういうものがあるのではないかという人もいました。

プーチン氏の発言を振り返る

プーチン氏は、ドネツク、ルガンスク人民共和国の独立承認時の演説で、ウクライナとロシアは一体だということ、また、いずれウクライナはNATOがロシアを攻撃する前線基地になるため、わが国にとっての脅威は大きく高まっている、というようなことを言っています。

軍事侵攻を開始した24日には、NATOがロシアの国境に近づいていること、ウクライナ国内に軍事拠点を構えようとする試みは受け入れられないことを主張します。まだ実際には何も起きていないのですが、プーチン氏は、いずれ絶対に起きることを未然に止めなくてはいけないと言い、ロシア国民向けの演説で自分の攻撃を正当化しています。今回の軍事作戦開始の大きなキーワードになってくるのは、NATO拡大への脅威と、ウクライナとロシアは一体だという、この2つの考え方だと思います。

NATOとロシアの関係、NATO加盟国の変遷

冷戦時代、西ヨーロッパの国々の多くはNATO、東ヨーロッパの国々の多くはワルシャワ条約機構に加盟していました。ところが冷戦終結後、ワルシャワ条約機構は解体し、そこに加盟していた国からNATOに加盟する国が出てきました。それまでソ連、ロシアの防波堤になっていた国々だったこともあり、これがプーチン氏の言う、NATO拡大の脅威ということなのです。

1990年、ワルシャワ条約機構に加盟していた東ドイツとNATOに加盟していた西ドイツが統一ドイツになり、NATOに加盟しました。その際、それ以上NATOは拡大しないと約束したことが、ロシア側の公文書に残っています。しかし国際的な公文書としては残っておらず、NATO側は約束したことを認めていません。今回、プーチン氏がNATO不拡大などを国際的な公約文書として認めるよう要求したのは、このことからだと思います。2008年、ウクライナとジョージアがNATO加盟を希望しました。そのときはNATO側が正式に「加盟候補国」とすることは見送り、いずれ受け入れましょうというような曖昧な約束をして終わりました。NATOはロシアに配慮したつもりでしたが、それでもロシアからすると許せなかったようです。

ロシアがそこまで神経質になるのには、歴史的な理由もあります。19世紀の初めのいわゆるナポレオン戦争ですが、ロシアではフランス軍を追い払って祖国を守ったため、これを祖国戦争と呼んでいます。第二次世界大戦のときにはナチスドイツを押し返し、これを大祖国戦争と呼んでいます。そのような歴史があり、今回は第3の波としてNATOが来ているという強迫観念があったのではないかと言われています。ロシア軍が毎年行う大規模な軍事演習について、NATO側は最終的にロシアをアメリカの影響下に置こうとしているため、いずれロシアとアメリカの大戦争が起きるという、今のロシア軍幹部の強迫観念を反映しており、プーチン氏もその考えを刷り込まれているのではないかと言う軍事評論家もいました。

「ロシアとウクライナの一体性」とウクライナの歴史

2021年7月、ロシア大統領府のホームページにプーチン氏の『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』という長大な論文が公開されました。ロシアとウクライナは本来一体のものであるが、ロシアの影響力を削ごうとする欧米諸国にそそのかされて、今のウクライナ政府がロシアと対決し、ウクライナ国民を人質にして苦しめている。だから、今の政権を追い出して一緒になれば、みんな幸せになり、それが本来の姿である、という論文でした。それが今回、戦争を始めるに当たっての演説にも表れています。プーチン氏なりに研究をしていたようですが、保守派の歴史学者に傾倒してのめり込んでしまったところがあるようです。

大昔の地図にはキエフ公国という国があります。キエフ公国はモンゴル軍に滅ぼされ、残った王族の一部がモスクワ公国を作り、それがのちのロシア帝国になったという歴史があります。そのため、このキエフ公国がロシアの原点だといわれています。キエフ大公のウラジーミル1世はキリスト教に改宗しましたが、これが今のロシア正教の元祖です。プーチン氏も、ロシアのアイデンティティーの非常に大きな要因として、ロシア正教を大事にしています。ロシア帝国時代には、ローマ帝国が滅びたあとの東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)が第2のローマ、東ローマ帝国が滅びた後にそれを受け継いだのが今のロシア帝国の首都モスクワなので、モスクワは第3のローマだと唱えられていました。ロシアはそういう歴史を受け継いでいるということが、プーチン氏のなかにあるのかもしれません。何しろプーチン氏のファーストネームもキエフ大公と同じ「ウラジーミル」ですから。もっとも、ウクライナのゼレンスキー大統領のファーストネームも「ウォロディーミル」でロシア語読みでは「ウラジーミル」になります。

2016年にクレムリンの近くで、ウラジーミル大公像の除幕式があり、プーチン氏が演説をしました。プーチン氏は、ロシアの原点となったキエフ公国のウラジーミル大公を自分と重ね合わせ、自分もロシアを立て直した人物として後世に残そうとしているのではないかと言う人もいます。プーチン氏はソ連崩壊後の混乱からロシアを立て直し、国際社会のなかでもアメリカと対抗することができるまでになってきました。今度は、いわゆるルースキー・ミール(ロシア語で「ロシアの世界」)と呼んでいるロシアの勢力圏からアメリカの影響力を排除し、もう一度ロシアの世界を立て直すという使命感を持ってしまったのかもしれません。

1917年、ロシア革命でロシア帝国が終わったときに、ウクライナ中央ラーダという議会が発足し、ウクライナの独立を要求しました。そのあとウクライナはロシアと対立して、ウクライナ国民共和国の独立を宣言しました。これが歴史上、ウクライナという国が表舞台に出てきた初めての記録です。ところが、ウクライナ国民共和国はソ連の共産党の母体となった「ボリシェビキ」と対立して内戦になり、ウクライナ国民共和国に代わってウクライナ・ソビエト社会主義共和国が作られ、それが、そののちソビエト連邦の1つとして組み込まれています。第二次世界大戦時、ウクライナの民族主義者はナチスと手を組んでソ連と戦おうとしたことがあり、これを歴史としてソ連時代も教育されていました。だからプーチン氏も、今、ウクライナで政権を握っているのもナチスと手を組んだウクライナの民族主義者であるとして、彼らをナチスと言ったりするのです。

ロシアにとって、ナチスドイツに勝って第二次大戦の戦勝国になったことは、世界に平和をもたらした神話のようなものになっています。今でもそれがアイデンティティーのよりどころになっているので、ナチスと一度でも手を組んだ相手を許せないというのは、ロシア国民の間に響くのです。それをプーチン氏はよく分かっていて、うまく使うのです。

ウクライナがきちんと独立したのはソ連崩壊の直前ですが、独立後もヨーロッパとロシアとの間で揺れ動いていました。2010年の大統領選挙では親ロシア派が勝利しましたが、ウクライナの国論は親ロシア派と親ヨーロッパ派で二分されていました。しかし今回の軍事侵攻によって、ウクライナがほぼ全部反ロシアになってしまっと思います。この点でプーチン氏は、大きな失敗をしたのではないかと思います。

プーチン氏はなぜ一線を越えたのか

プーチン氏が一線を越えた理由として、NATO拡大が非常に気がかりであったことが考えられます。それにより政権が倒されて欧米の影響下に入ること、自身が暗殺される恐怖、国際包囲網に対する反発などがあったのでしょう。

次に考えられるのは、10年ほど前から出てきたルースキー・ミールという概念です。この、ロシア独特の世界観を守っていくことを、自分に課された課題と考えたのではないでしょうか。そこにいろいろな誤算、過信、思い込みが加わったのかもしれません。

もう1つ言われているのは、新型コロナウイルスの影響です。プーチン氏はごく限られた側近とだけやりとりをしていたため、情報が非常に偏っていたのではないかということです。もちろん情報の偏りや精神的不安定といった要因があったことも考えられますが、それが直接の原因というよりももともとプーチン氏のなかに、ロシアとはこうあるべきであるという考え方があり、それが今回、さまざまな理由から表に出てきて実際の決断につながったと推測することもできます

なぜ今かという理由で思い浮かぶのは、ロシアの憲法改正です。プーチン氏の任期は2024年で終わることになっていたため、そこで引退することを示唆していました。しかし、2020年3月に、大統領の任期は2期までとする一方で、これまで大統領を務めたプーチン氏とメドベージェフ氏は例外という憲法改正案が議会から出てきて7月の国民投票で承認されました。憲法上は2036年までの任期が可能となりましたが、プーチン氏もすでに70歳ですので、これからどうするかを考えていると思います。これまで一番長く政権を握ったのはスターリンで、30年政権を持ちました。もしプーチン氏がそれを超えるとしたら、ロシア史上最長の政権になります。

ロシアは経済力も乏しく、核兵器以外の軍事力は決して強くありません。それでもプーチン氏は、これまでさまざまな局面で合理的に判断し、世界の大国としてアメリカと伍してやってきた、非常にクレバーな人だと思います。もともとプーチン氏は、国家に尽くすために志願して諜報機関のスパイになりました。国家とは何かということをずっと考えてきた人であって、それが結局、根っこにあったのではないかということを、今回改めて考えています。プーチン氏は、決してソ連の共産主義を礼賛しているわけではありません。欧米の近代主義とは違う価値観を持つロシアの世界を守るという使命感があり、そこに任期や年齢からくる焦りなどが加わって、今回の戦争の決断につながったのではないかと思います。

ロシアとウクライナの情報戦

現状をひっくり返すためにロシア国内で反プーチン、反戦デモが起きることを期待したいですが、今のところなさそうです。メディアは相当規制され、今回の侵攻を戦争と呼んではいけないという法律を制定したりしています。ある一定の年代以上の人は、ロシアの国営テレビが流す、ロシア軍がウクライナ市民を助けるようなニュースを信じています。インターネットから情報を得ようという人もいますが、TwitterやFacebookなどは遮断されているようです。若い人も結局、反プーチンで立ち上がろうというところまではいきません。その核となる人がいないからです。そういう状況にあって、なかなか反プーチンの動きが国内で起きません。みんな怖いから言わないということもあるでしょうが、世論調査ではプーチン氏の支持率は高いのです。

一方のウクライナは、SNSを使って上手に世界に発信しています。今や世界中が、こぞってウクライナを支援しています。ロシアは完全に孤立無援で、中国もロシアに対して積極的な支援はしていません。こういった状況のなかでロシアとどう向き合っていったらいいのか、非常に難しい課題だと思います。

世界はロシアとどう向き合うのか

ドイツやフランスが停戦交渉に持ち込もうとしてロシアにも働き掛けていますが、ゼレンスキー氏は、そんな合意をしては駄目だという立場です。戦争はどこかで止めなくてはいけないと思います。しかしウクライナの人たちは、ロシア側がこの戦争に関して何らかの成果を出したとすることが許せないようで、そこが悩ましいところです。これについては、私も結論がありません。

第一次世界大戦後を振り返ってみると、ベルサイユ条約でドイツから多大な賠償金を取ろうとしたら、結局それでドイツが経済的に困ってしまいました。そのような状況下でヒトラーが台頭して政権を掌握しました。そのヒトラーがチェコのズデーテン地方の併合を求めたとき、イギリスとフランスは今度はこれを認めました。しかし、ドイツはフランスとポーランドに侵攻し、世界は第二次世界大戦に向かっていきました。対決方式も和解方式も失敗したという例ですが、今回ロシアに対してどうするのか、対決するのか和解するのか、非常に難しい状況になっているように思います。

日本としても、これからロシアとどう向き合っていくのかは難しい問題です。北方領土問題があるということは、日本とロシアの間には国際条約で認められた国境がないということです。ロシアは第二次世界大戦後に一時、北海道の一部の権益を求めたことがあり、これはまだ有効であるということを言い出すロシアの議員が、今でもいるのです。

一方で経済協力の面で見ると、そもそもなぜ日本がロシアから石油を買っているかというと、ほとんどを中東に頼っている石油ガスを運んでこられなくなったとき、近場にエネルギー源があることは日本にとっても大切だという考えからです。そのようななかでそれを手放すのか、ロシアとこれからどう向き合っていくのかというのは非常に難しい問題で、大変な課題を抱えてしまったなというのが、私の今の思いです。

 

質疑応答

男性A 「高い山があれば防衛に有利かと思うのですが、ウクライナとロシアとの国境付近に高い山はありますか。」

大木氏 「山はなく、基本的に平地で沼地です。今回、ロシアの戦車がぬかるみにはまったところをウクライナ側が襲撃して戦車を止めたということで、キーウへ進軍した軍隊がうまく攻撃できなかった理由とも考えられます。」

男性B 「冷戦で壁が崩れた時期、ロシア側がNATO加盟を検討したが受け入れられなかったということがあったと思います。実際にはどんな状況だったのでしょうか。」

大木氏 「エリツィン氏が大統領だった時代、ロシアのNATO加盟が議論されたと記憶しています。ロシア側としては、NATOもワルシャワ条約機構もない、自分たちも対等な形で新しいヨーロッパの安全保障の機関を作ることが目標でしたが、NATOとしては、そのままNATOを残したかった。結局、そのあたりで両者の考え方がかみ合わなかったのでしょう。2003年に起きたイラク戦争が決定打となり、その話は立ち消えになったというのが私の記憶です。」

男性C 「ロシアと北朝鮮、中国とのつながりや、日本との交流はどうなるのでしょうか。」

大木氏 「ロシアと中国は、対アメリカに関しては利害関係が一致していますが、今回のロシアのウクライナ侵攻に関しては別で、国際的な雰囲気もあって積極的にロシアを支援しづらい状況と思われます。これからの中国とロシアの協力関係は、今までのようにはいかないと思います。一方で、中国、ロシア、北朝鮮は、対アメリカということでは利害が一致するので、関係は続くかもしれません。次に、日本についてですが、今のところはアメリカやヨーロッパと一緒に、ロシアに制裁をしています。しかし、いつまでも制裁を継続していくことはできないと思います。いずれはロシアと関係を立て直さなくてはいけないと思いますが、どういう状態になればそれができるのか先行きが見えないのが現状です。」

男性D 「ロシアから離れて、あとからNATOに加盟した国は、どういう思惑だったのでしょうか。」

大木氏 「あとから入った国のほとんどが、第二次世界大戦後にソ連軍に占領されて共産主義にさせられたという認識です。民主主義国家になりたいが、ロシア、ソ連に対する恐怖心が残っており、守ってほしいということだったのだと思います。」

男性E 「フィンランドとスウェーデンの2国は、ロシアからすると緩衝地帯だったと思いますが、それがNATOに変わることに対して、ロシアの方の意見はどのようなものでしょうか。」

大木氏 「直接やりとりができていないのでロシア人の生の声は分かりませんが、プーチン氏にしても想定外だったのではないかと思います。実際にどうなるのかは分かりませんが、スウェーデンやフィンランドにしてみれば、ロシアの脅威は高まっていたのだろうと思います。しかし、その2国がNATOに入ると、今度はバルト海に面したカリーニングラードというロシアの飛び地にロシアが軍隊を集めて、新たな脅威となるのかもしれません。ロシアにはもうそれほど余力はないと思いますが、もし戦争を起こすとしたら今度は核兵器が出てきて、目も当てられない状況になってしまう気がします。」

 


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