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沖縄復帰50年 その歩みと「今」


2022.5.21

佐藤敬一  氏

毎日新聞社 東京本社デジタル報道センター

1996年入社。大学時代から沖縄に通い、沖縄の取材は10年以上。2014~18年に那覇支局を務め、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設を巡る政府と沖縄県の対立や沖縄戦などを取材した。18~22年には福岡本部で沖縄担当デスクを務め、22年4月から東京本社デジタル報道センターデスク。大学時代には沖縄で農家の手伝いをしながらエイサーに参加し、那覇支局勤務時代には旗頭(はたがしら)に取り組んだ。

首里城の焼失

沖縄には沖縄本島と無数の島々があり、沖縄本島に人口の9割が暮らしております。戦跡が多い沖縄本島南部、普天間飛行場、嘉手納基地など基地が多い中部、自然豊かな北部となります。そして那覇市には首里城があります。

 

2019年10月に首里城が全焼しました。このときの紙面には、沖縄の人たちが茫然自失する様子が描かれています。心のふるさとを失ったと、一夜明けても多くの人が燃えた首里城を見に来ていました。

首里城は、創建年代は不明であり、最古の遺跡は14世紀のものとされています。1879年に明治政府へ明け渡すまで、沖縄は琉球王国という王国でした。その王国の政治や文化の中心だったのがこの首里城です。焼失したのは今回が初めてではなく、直近の4回目は1945年の沖縄戦で、今回は5回目の焼失になります。沖縄戦で焼けたあと、本土復帰20周年の1992年以降に復元が始まりました。2019年の焼失時は、ちょうど復元が完了したばかりのタイミングでしたので、沖縄中が強い衝撃と喪失感に包まれました。

沖縄の歴史を振り返ると、琉球王国は1429年に誕生し、1609年に現在の鹿児島県である薩摩藩が琉球王国に侵攻します。そのあと1879年に明治政府が軍隊を派遣し、琉球国王を追放して、沖縄県が設置されました。この一連の流れをこの沖縄では琉球処分と呼んでいます。1945年に沖縄戦へ突入し、終戦後は米軍の支配下に置かれ、1972年に日本復帰して2022年5月15日に復帰50年を迎えたということになります。

首里城の地下に埋まっている昔の遺構は世界遺産に登録されています。しかし、焼失した建物は復元したもので、作られた当時は所詮作り物だという批判が県民にもありましたが、数十年が経ち、沖縄の人たちにとって首里城という存在は単なる復元建築ではなく沖縄戦で失われたもの、そして復興のシンボル、そして昔は琉球王国という栄華を誇った王国であったということが心のよりどころなのだと思います。

沖縄を紐解く3つの歴史

沖縄を読み解くには歴史という縦の時間軸でとらえ、なぜこの人たちはこう考えるのか、なぜこの人たちは怒っているのかを考えていくとより理解が深まると思います。その意味で覚えておきたい沖縄の歴史が3つあります。それは、琉球王国がなくなる過程の琉球処分の歴史、県民の4人に1人が命を失われたとされる沖縄戦の歴史、そして50年前の米国統治の歴史です。この3つの歴史は全て今につながっています。逆に言えば今なぜこのようなことが起こっているのかを紐解くと、この3つの歴史につながることが分かります。

琉球王国は1429年に誕生した独立国家です。沖縄は周囲を海に囲まれているため中国などとの外交や貿易を通じて発展しました。日本だけではなく中国などの影響も受けて、独自の歴史や文化を構築していきました。そのなかで首里城というのは、国王らが居住する王宮であると同時に外交、政治の中心地であり、国を守る祭祀の拠点でもありました。しかし、繁栄は長くは続かず1609年に薩摩藩に攻められ、1879年に国王が追放されて、ここから沖縄県としての歴史が始まっていきます。これが琉球処分です。

沖縄戦は1945年3月26日に、沖縄本島から少し離れた慶良間諸島に米軍が上陸し、4月1日に沖縄本島の中部、嘉手納町から読谷村のあたりから米軍が上陸して本格的な戦闘が始まります。当時沖縄県の人口が約45万人のところ、沖縄に来た米軍は55万人、さらに最新の兵器を持つその総力は日本軍の約10倍にのぼったと言われています。沖縄戦で亡くなった人の数は兵士も併せて20万人です。そのうち沖縄県民は一般の人が約9万人強、沖縄の軍人、軍属の人たちが2万8000人強、合わせて12万人ほどで沖縄県民の4人に1人が命を失いました。20万人というと静岡市駿河区の人口が約20万人ですので、駿河区が全部なくなるようなイメージとなります。沼津市の人口も19万人ほどと聞いていますので、沼津市がいっぺんになくなるというようなイメージです。

なぜ沖縄が戦場になったのか

太平洋戦争は1941年12月の真珠湾攻撃により始まりました。日本は次々とアジア、太平洋の島々を攻略していきました。しかし、1942年のミッドウェー海戦で敗戦以来、敗戦を重ねていきました。そのとき、日本は絶対に奪われてはいけないラインである絶対国防圏を南洋諸島に引きましたが、サイパンやグアムなどのマリアナ諸島が次々と米軍に奪われていきました。マリアナ諸島から日本までは約2400キロです。つまり、当時のB-29が給油なしで日本本土まで往復可能な距離になります。そして米軍は日本本土に攻め込むための足場として沖縄を確保したいと考えました。

米軍は3月26日に慶良間諸島に上陸し、4月1日に沖縄本島へ上陸します。ここから北と南に分かれて進軍をはじめ、5月下旬には首里城の地下にあった当時の日本軍の司令部まで米軍が迫ってきたため、日本軍はこの首里城の地下にあった指令部壕を放棄して沖縄本島南部に撤退することを決めます。このときに、降伏するのか、それとも持久戦を展開するのか2つの選択肢が考えられたはずですが、降伏ではなく持久戦を選びます。しかし、当時日本軍が撤退をした沖縄本島南部には多くの住民が逃げており、そこへ多くの日本兵が撤退して来たために、日本兵と一般の住民が混在してしまい、その結果多くの住民が巻き添えになってしまいました。ついに、6月23日に司令部が自決し、日本軍が組織的戦闘を終結しました。この沖縄戦は、ありったけの地獄を集めたというほど悲惨なものだったと言われています。

沖縄戦が分かる4つのキーワード

1つ目は鉄の暴風。2018年に那覇市の国際通りという観光地で米軍の不発弾が見つかりました。このときは国際通りを1時間ほど止めてこの不発弾の回収作業が行われました。沖縄戦では約20万トンの爆弾が使用されたと言われ、沖縄県の推計ではまだ約2000トンが地中に眠っているとみらており、全てを処理するにはまだ70年ぐらいかかると言われています。過去には高校のグラウンドや幼稚園の近くの工事現場で見つかったこともあり、そこは爆発して幼稚園児が1人亡くなったという痛ましい事故も起きています。

2つ目は集団自決。沖縄にはガマと呼ばれる自然の鍾乳洞がとても多くあり、沖縄戦のときは多くの人がこのガマのなかに逃げていました。沖縄本島中部の読谷村にあるチビチリガマには140人の住民が隠れていましたが、米軍が上陸したという連絡を受けてパニックになった住民たちが、持っている鎌や包丁などで自分の子どもや夫に手を掛け、140人中83人がここで亡くなりました。そのうちの6割は18歳以下の子どもだったと言われています。実はこのチビチリガマから1キロほど離れたところにあるシムクガマには1000人ぐらい隠れていましたが、ここでは1人も被害者が出ていません。なぜ明暗が分かれたかというと、シムクガマにはハワイから帰ってきた人たちがいたため、パニックにはなりつつも、アメリカはそんなことはしないと住民を説得した上で、英語も話せるため、米兵と交渉して全員が投降して命が助かったのです。

3つ目は日本軍。圧倒的に戦力が不足しているなかで日本軍は兵糧や食料が不足したまま戦いに突入しました。このため、多くの一般の人が逃げていたガマに日本兵がやってきて、ここを軍のために使うからと追い出したり、住人が持っていた食糧を奪うようなことが相次ぎました。また当時、沖縄の方言を理解しない日本兵は、住人に何を言われているか分からないためパニックになり、スパイを疑って殺したり、一緒に身を潜めているときに、赤ん坊が泣くと敵に見つかるからと殺せと迫ったり、銃で撃ったりということもありました。こんな経験から沖縄の年配の方、沖縄戦を経験した方には、軍は住民を守らないとおっしゃる方も多くいます。

4つ目は学徒隊。沖縄戦では今の中学校、高校生にあたる世代も戦場に送り込まれ、男子は伝令、女子は看護などに当りました。詳細が不明な学校もありますが、当時沖縄には21の旧制中等学校があったと言われ、2000人の生徒が動員され、そのうちの半分の1000人が戦場で亡くなったと言われています。学徒隊のなかで1番有名なのはひめゆり学徒隊で、これは沖縄師範女子学校と沖縄第一高等女学校の2つの学校で組織する学徒隊だったのですが、生徒と教師合わせて240人が動員されました。この240人のうち136人が戦場で命を失いました。このひめゆり学徒隊だけではなく、ほかにも白梅学徒隊やなごらん学徒隊、男子では鉄血勤皇隊など、学校ごとに名付けられていました。ひめゆりの生き残りの方々は、もう皆さん90過ぎて、あと10人いないと思いますけれど、まだ元気な方がいらっしゃいます。ひめゆり平和祈念資料館では10年ぐらい前までこの学徒の生き残りの方々が直接体験をお話してくださったのですが、高齢化に伴って4、5年前からはもう表には出てこなくなりましたけれども、何か節目のときに来ていただいています。

平和祈念公園にある平和の礎は、戦後50年の1995年に建立され、沖縄戦で亡くなった方、国籍を問わず、米兵も含めた全ての名前が刻まれ、その数は約24万人と言われています。沖縄慰霊の日には早朝から夕方まで手を合わせる人の姿が見られます。名前が1つ1つ刻まれていますので、ここに立つと、どれだけの人が命を失ったのかがよく分かります。沖縄戦で全て焼けたため、証拠がなかったり、一家全滅などで詳細が不明な方もいて、そういう方々も含めてなるべく生きていた証を残そうというのがこの平和の礎です。

アメリカ統治下の沖縄

太平洋戦争が終結して沖縄、奄美諸島、小笠原諸島の3つが本土から切り離され、米国の施政権下に入りました。アメリカとなった沖縄では、米軍はいわゆる銃剣とブルドーザーという手法で、銃剣で住民を脅しながらそこをブルドーザーで開拓し、土地を取り上げて基地を拡大していきます。そして元々本土にあった多くの米軍基地も次々に沖縄へと移転していきました。

米国民政府は絶大なる権力を持っていました。ここの命令が最優先されて沖縄の人たちの人権が激しく抑圧されました。日本国憲法も適用されず、米軍人による事件、事故も相次ぎましたが、軍事裁判で裁くわけで無罪判決も相次ぎました。当時は外国の扱いのため、本土に行くにはパスポートが必要ですが、アメリカから認められないとパスポートが発行されませんでした。通貨に関しても円ではなくドルが使われていました。沖縄の人たちのなかには不満が鬱積し、1970年にはコザで米兵の車が起こした人身事故をきっかけにコザ騒動が起こりました。

日本に戻りたいという思い

基本的人権を定める日本国憲法への憧れ、日本に戻りたい、祖国復帰したいという思いから、運動が高まっていきます。そして、日米の政府の交渉のもと1972年5月15日、今から50年前に沖縄が本土復帰を果たします。しかし、復帰の日が近づくにつれて、多くの米軍基地がそのまま残されたまま復帰するということが明確になってきましたので、失望もどんどん広がっていました。本土並みっていう思いを沖縄の人たちは思っていたんですけども、多くの基地が残ったまま日本に復帰することになりました。

1972年5月15日に政府主催の復帰記念式典が那覇市民会館で開かれました。このとき那覇市民会館の隣にある与儀公園では約1万人が集まった抗議集会が行われていました。隣り合わせのところで、祝賀の式典と抗議の集会が行われた。当時の沖縄の人たちの思いをよく表しています。当時の屋良知事は挨拶で、必ずしも復帰に関して、私どもの切なる願望が取り入れられたとは言えない。したがって、これからもなお厳しさが続き、新しい困難に直面するかもしれません、と挨拶しています。今のその後の沖縄の現状を表すような、予言するような言葉ではないかと思います。

残された米軍基地

現在沖縄にある米軍専用施設は31、総面積は18484ヘクタールです。これは沖縄県の面積の約8%で、沖縄本島の約15%となり、全国の米軍専用施設の70.3%が集中しています。ちなみに静岡県にある米軍専用施設の面積は120ヘクタールほどで、全国比は0.46%です。住人から取り上げた土地がほとんどで、沖縄の米軍専用施設の約77%が民有地や公有地です。本土は約87%が国有地ですので、そういう違いもあります。戦後間もなくは本土にも多くの米軍基地がありましたが、米軍関係の事件や事故が相次ぎ、基地反対運動が起きたため、次々と沖縄へ移転してきたのです。沖縄戦のときには、沖縄に上陸した米軍が住民を収容所に入れて勝手に基地を作ってしまいました。米国統治の時代は武装兵らによって住民を追い出して、さらに新しい基地を拡大してきました。復帰後は、沖縄県民が望む基地の縮小、整備縮小はなかなか進まず、その後も返しますとは言っても、ほとんどの基地が県内移設が条件で、県内から県内に移るだけで、むしろ固定化が進んでいるというような状況です。

沖縄の基地問題の代名詞のように言われている米軍普天間飛行場は、面積は480ヘクタールで宜野湾市のちょうど1/4ほどの大きさで、ちょうど町のど真ん中にあります。周囲は住宅や学校、病院が立ち並んだ密集地で、2004年8月にはこの普天間飛行場に隣接する沖縄国際大学に大型のヘリが墜落しました。幸い夏休み中だったので、学生や周囲の人たちには被害はありませんでした。しかし、日米地位協定があり、沖縄県警もまともに捜査ができませんでした。普天間第二小学校では2017年12月、校庭に米軍のヘリから、重さ8キロの窓が落ちました。当時は体育の授業中で、1番近い子どもからは10メートルしか離れていなかったと言われています。周りに住宅地が密集していて騒音も大きく早朝、夜間も米軍機が飛ぶので、かなりうるさいです。世界一危険な飛行場と言われています。

辺野古移設問題

1995年に起きた米兵3人による少女暴行事件によって沖縄の怒りが頂点に達し、日米両政府が翌1996年4月12日に普天間飛行場の返還に合意します。しかし、返還は県内に新しい基地を作って移設することが条件でした。そこで辺野古への移転が浮上しますが、多くの沖縄県民が反対したため、計画は紆余曲折をたどりました。2014年の知事選では、移設反対を掲げた翁長雄志さんが移設推進だった仲井眞さんに10万票の大差をつけて当選し、圧倒的な民意を示したように見えたのですが、それでも日本政府は2017年4月に埋立て工事に着手します。2018年に翁長さんが現職のまま亡くなり、後継になったのが玉城デニーさんです。それでも工事の手を緩めることなく、2018年には土砂を本格的に投入してしまいます。こうして選挙でいくら民意を示しても、日本政府が言うことを聞いてくれないため、2019年2月に辺野古移設に賛成か反対かの県民投票をやります。ここでも辺野古移設反対が7割に達しました。それでもやはり日本政府は、辺野古移設という工事の手を緩めることなく今に至っています。

しかし、埋立て工事の始まった辺野古では新たに軟弱地盤が見つかりました。設計を変更して新たに地盤を強化する工事をしなければ飛行場が造れないということで、国が設計変更を県に申請しましたが、県が認めていないので、また争っています。辺野古に新たに作られようとしている基地は、面積としては205ヘクタール、長さは1800mの2本の滑走路をV字型に作ります。一部はキャンプ・シュワブというアメリカ軍の基地にかかりますので、埋め立てる面積は約160ヘクタールになります。埋め立てられようとしている海にはとてもきれいな自然が残っています。皮肉なことに、ここに米軍基地があり手付かずだったために自然が残っているわけです。ここには国の天然記念物のジュゴンが生息していると言われていますが、音に敏感なので、工事をしている今はいないのではないかと言われています。

繰り返される悲しみと怒り

復帰から50年が経ちますが、米軍関係の事件は繰り返されてきました。1番有名な1955年に6歳女児が殺された、由美子ちゃん事件や2016年の元米海兵隊員による女性殺害事件など、こうした事件のたびに、また女性を守れなかったという悔しさを抱えています。

当然、事件だけではなく事故も多発しています。米国統治時代には、小学校にジェット機が墜落して17人が亡くなりました。16年にはオスプレイが墜落、17年には普天間第二小学校にヘリの窓が落下しました。沖縄県の統計によると、復帰後の事故やトラブルは、826件起こっているそうです。

普天間飛行場と嘉手納基地の周辺の人たちは騒音をめぐって何度も訴訟を起こし、そのたびに社会生活上、受忍限度を超える騒音ということで賠償命令がくだっています。賠償額としては21億円や261億円などです。本来なら日米地位協定で責任の半分は米軍が払うことになっていますが、これまで1銭も払ったことがありません。すべて日本の我々の税金から支払われています。

問題の多い沖縄ですが、本土復帰50年を経て良くなった点も多くあります。人口が増え、観光客もとても増えました。かつての沖縄は、観光、基地、公共事業の3K依存経済と言われていました。本土復帰までは観光ではなくサトウキビのキで3Kです。現在では、復帰時に比べると観光収入は増え、基地収入は減りました。もちろん基地で働いている人もまだ大勢いますので、基地がある限りこれがゼロになることはありませんが、減ってきています。那覇市では返還前にアメリカの住宅地だったところが返還後に住宅や商業施設が集まる活気あるエリアとなり、雇用も生まれて経済効果は32倍になっています。基地がないと沖縄はやっていけないのではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはなく、経済効果が生まれるので、翁長知事は、基地は沖縄経済最大の阻害要因だと話していました。

翁長知事は、土地を奪って、今日まで大きな苦しみを与えておきながら、基地が老朽化したから、世界一危険だから、普天間飛行場の移設は辺野古が唯一の解決策だから、沖縄は基地を負担しろというのは理不尽だと言っていました。今の玉城デニー知事は、民意を蔑ろにして工事を進めるのは、法治国家として民主主義国家としてあるまじき行為だという話をしています。

安全保障は日本全体の問題

NIMBYという言葉を聞いたことがあるでしょうか。NIMBYというのはノット・イン・マイ・バックヤード。つまり、うちの裏庭には持ってくるなというような意味で、必要性は理解するが、自分の近くにはほしくないという態度を示すのがNIMBYだと言われています。沖縄でも多くの人は安全保障のために米軍基地は必要だけれど自分の地域にはいらないと言うでしょう。そうすると、やはり今のまま沖縄に押し付けておこうという考え方になってしまうと思います。沖縄の人たちの思いを私なりに解釈すると、米軍基地問題は沖縄だけの問題ではないということなのです。要は日本の問題、日本の安全保障の問題であり米軍基地が必要なら国民全体で負担すべきではないか、考えるべきではないか、これがたぶん最大公約数の沖縄の人たちの思いだと思います。

私も基地問題は沖縄だけの問題ではないと思います。全国各地にある基地では、訓練が展開され、オスプレイが日本本土に飛んでくることもあります。さらに言えば、日本の主権に関わるのが基地問題ということです。毎日新聞の『特権を問う』というキャンペーンでは、米軍ヘリが首都圏、新宿のあたりを日本の航空法ではありえない低さで飛んでいるということを、動画を突きつけて証明した記事を出しました。『特権を問う』は2020年2月からスタートしたキャンペーン報道で、地位協定の問題などを報じていますが、これまでに90本以上を連載し、基地問題や地位協定の問題は沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題であるということを皆さんに分かってもらうために取り組んでいます。

私が沖縄を取材する際に大事にしているのは歴史です。沖縄の人たちの考えを歴史という縦の物差しを置いて考えてみることで本質がよく見えてくると思います。そして沖縄について考えるということは日本について考えることにつながると思いますので、皆さんにも復帰50年を機に少しでも沖縄に関心を持っていただいて、日々のニュースに接していただきたいと思っております。

 

質疑応答

男性A 「お話を聞いて、民主党政権時代に当時の鳩山首相が言った「最低でも県外」という発言は、問題提起としてありだったのではと思いましたが、鳩山内閣の基地問題への取り組みについてどのように評価していますか?」

佐藤氏 「鳩山政権は十分な連携もなく、突然県外移設と言い出したので、官僚もついて来ず、アメリカも反発し、うまくいきませんでした。鳩山さんに対する批判もありますが、沖縄ではパンドラの箱を開けてくれたと言って評価する人もいます。やればできると思えるきっかけとなりました。」


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崖っぷちのSDGsを救えるか~若者たちの挑戦に学ぶ~

2024年12月21日 開催

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日時
2024年12月21日[開始時刻]15:00[開始時刻]14:30
会場
毎日江﨑ビル9F 江﨑ホール
WEB配信
WEB配信あり

2024年カリキュラム CURRICULUM

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01/13新春!日本の政治展望前田浩智 氏

02/24ロシアはどこへ行くのか大木俊治 氏

03/013月は休講となります。 
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05/18日韓関係の改善は本物なのか澤田克己 氏

06/15宗教と政治を考える坂口裕彦 氏

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07/13揺れる価値観 パリ五輪を展望岩壁峻 氏

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この30年を振り返りながら
澤圭一郎 氏

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『数独国際大会の裏側』
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